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かくいうもの

いつでもきょうがいちばんたのしいひ

生姜蜂蜜ホットミルクという幸せ

季節の変わり目、というだけではなく、なんらかの地球の意志を感じてしまうような毎日のころころと変わる天気に心を弄ばれてしまい、弱体化した精神の崩壊は、肉体へ。なんというか、まあ、風邪をひいた。調子に乗った春装備での外出から帰宅したら、なんか違和感。まずは喉。早めに薬を、と錠剤を放り込んだ時すでに遅し。不覚。ベッドに体を放り投げて一晩寝て起きた朝に絶望。それでも、なんとかなると思って実際仕事はなんとかしたけど、ここ二日の記憶はおぼろげで、やっと今日の朝になって回復の兆しを感じるまではまるで、深い夜を徘徊でもしれるかのような不確かな、実体からはぐれてしまったかのような日々。やっと味覚が戻ってきて、食べ物の味ってこんなだっけという新鮮な驚きが今。涙を貯めて焦点の合わない目をしていたらしく、弱ってるアピールに結果的になってしまい、心配だけはされてしまい、そのお返しにウイルスをばら撒くという至極不義理なことをしている、なんてダメなやつ。ネガティブな言葉を吐き出していれば当然のように人は離れ、集団の中だからこそ余計に孤独を感じてしまって、やっぱり人に会いたくなるのが常。身を助くのは、生姜の香りとはちみつの甘さと、温かい牛乳の優しさで、ここぞとばかりに。弱体化した体で積み残した山盛りのタスクを一つ一つ消化していかないと。


吐き出したい言葉ばかりが、積りに積もっていって体内で発酵してガスを噴き出している。
言葉になってる時点で、感情からは剥がされた時点で、それはもう放り出されていいはずのものなのに、それができなくて、結局のところ、こういうところで吐き出すしかないというのも。ふむ。人との関わりが薄まっていくと、自由に生きられなくなるんだなあ、というのを実感している。ただこういうのも、精神が弱っている時にわく、期間限定的なモノであるとわかっていて、検証結果のサマリーのような説得力を持たせて言いたいわけでもなんでもない。


借りていた本を読み終えて、図書館に返却をして、さあ、本気モード。1年待った。1年も待たされた。それ故に昂りは正直で、これまた貪るように物語に浸りたがっている。アップで撮ったカットをつなげて、想像をかきたててから、頃合いをみて引いた画を見せ、物語に引き込むという王道の手法ながら洗練された手口に毎度感嘆し、いやその隙さえ与えずに立ちどころに世界へと取り込む手練。フェティッシュな描写の理由は「書いたときに興味があったから」にすぎなく、意味を与えたがるのは読者。センテンスが紡ぐ意味は共有される必要などなく、ただ個人のもとにそれぞれに漂う。


脳裏を時たま流れる風景の一つに、柑橘系の香りとともに見上げる絶望的な青い空があるのだが、時代も場所もわからぬ記憶で、これがまた記憶であるのかすら疑わしい。記憶の欠片が勝手に作り上げた涅槃の姿なのか、それでも香り、いや、匂いが伴っているというのは、やはり経験したことのあるものなのだろうか。こうやって考えてみると、その風景はよりたどりつけなくて、虚像にしか思えない。記録と記憶の違いは、音と色と、味と香りと、熱があるか、否か、だと勝手に思っていて、それは物理的なそれではなく、感覚的な、もの。とはいっても滑稽にしか聞こえないか。ともかく記録にはデジタルな記号の羅列しかなくて、記憶には体温がある、ということ。


鈍った脳みそのリハビリ替わりにこうやって日記を書いてみた今日だけども、思いつた言葉をそのままに書くのは、簡単ではあるけど、読みにくくあることは間違いない。まとまった量になると余計に。ふむ。