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かくいうもの

いつでもきょうがいちばんたのしいひ

吉田修一『悪人』

小説 映画

映画化されると聞いて小説を読んで、迷った挙句映画を見てきてた。なんだか悶々と心臓の近くに残っている澱みが、数日経っても消える気配がないのでここに吐き出しておこう。

悪人

ネタバレしまくり注意。

基本的に原作を読んだ作品は滅多なことがないと映画化されても食指が動かない。分かりやすいぐらいの原作至上主義者、なんだろうと思う。それでも、映画館に足を伸ばした要因の一つは、光代を深津絵里が演じていたから、だと思う。深津絵里じゃ無かったら観に行ってなかったと思う。10年前にシアタートラムで上演された「農業少女」*1を見てから、ずっと深津絵里に恋をしている。それともう一つ、もともと映像表現を得意とする作者の作品が実際に実写となったときにどう切り取られているのか、という興味があった。後者については、凄く久しぶりに抱いた興味だった。自分の想像力には結構自信があるほうで、大抵は小説を読んだ時点でほとんど満足に近い視覚的刺激を受けている、と自負していたのだが、今作に関しては、その心情の機微をどう映像化したらどうなってるんだろう、という興味がふつふつと沸いていたのだ。つまり、ラストシーンをどれだけ監督と役者は本気で描くのだろうかと、いうこと。休日の朝起きて、朝食を食べながら最後まで迷いつつ、結局は映画のチケットを予約していた。

心臓を掻き乱すような、切実な欲望と悪意

愛情や憎しみや、怒りや孤独や、そのどれでもない、とてつもなく強大な何かが、人を悪人にするのか。これは「誰が悪人か」という作品でもなく「誰しもが悪人」という作品でもない。「なぜ悪人となったのか」でもまたない。「人」として生まれてしまった以上「人殺し」は悪人となる。動物であれば生存競争である殺戮も、人であるが故、「生きるため」「守る為」の行為が「悪」となる。映画を見て、正直、祐一と光代を逃避させたのはもっと果てしなく深い孤独であったはずなのに、そのト書きが薄いと思った。しかしその部分を小説を読んだ直後で勝手に脳内で補完されていき、こういう「悪人」も有りかも、と映画版を楽しんではいた。


それでも、絶対的な不満が2箇所ある。
「むき出しの性欲」を見せつけられ、それをまた求めていた光代と祐一のセックスはもっとあられもない、激しく屹立するほどの渇望があるはず。所詮エンタメ作品と言ってしまっては身も蓋も無いが、この作品を描くにあたっては、重要なファクターであるはずなのに、どうしても、煮え切らない。別におっぱいを見せてくれなくてもいい、そういうものであるというふうにもっと本気で、狂おしく描いてほしかった。

もうひとつ。
祐一が母に合うたびに金をせびる理由として「二人とも被害者にはなれない」というものであるのだが。これは祐一が「加害者になる」という不器用な優しさを見せたものではない、と思っている。憎しみからそういう行動に出るならまだしも、子どものときに母親に大きく傷つけられ、心が底捻れてしまったのではないかと。深読みのし過ぎか。そうかもしれないが、小説でこの部分を呼んでいたときは、ああ人間が折れてる、と思った。そして、これが灯台での悪意のシーンに繋がる。小説では完全に読者に解釈が委ねられた。「二人共被害者にはなれない」故の行動かと思わせるが、「そうではない、なんら説明のつかないとてつもない悪意」が見えて人間が本当に怖くなった。小説での祐一が光代の首を締めるシーンは、それまで探ってきた悪意の正体を全否定するような迫力があったが、映画では、解釈が誘導されていて、視点を切り取るとこうなるのかー、というかこう見せたかったんだなーと思って、全く違った結論に、正直もやもやした。それが数日の悶々とした気持ちの理由である。


不満もあるが、この映画が嫌いなわけではない。
深津絵里は(個人的な思いを抜きにしても)素敵だし、被害者の父親の台詞も柄本明が吐くと、リアリティーが倍増されて、心をぐらぐらと揺さぶられた。


何しろ、数日を過ごすあいだずっと、俺は心情を読みきれていなかったんじゃないかと思い続けることになった。文庫版を買って読み返そうかと書店で手に取るとこまではいったのだが、一度映像で観てしまうと、キャスティングがされてしまい想像力が遮断されてしまう、なので、やめた。


小説はとても魅力的だ。今も灯台に憧れている。

悪人

悪人


誰が本当の悪人なのか・・・映画『悪人』耽溺サイト

*1:作・演出:野田秀樹